みんなの「名馬伝説」ブログ
流鏑馬(やぶさめ) 疾走する馬上から的に鏑 矢(からぶや)を射る、弓 術の稽古・儀式。文治3 年(1187年)8月15日 鶴岡八幡宮放生会に際 して、源頼朝が流鏑馬を 催行したことに始まると いわれている。 〈1〉風采の上がらぬ黒鹿毛馬 射た時に音が鳴るよう、先端に卵形の装置をつけた矢のことを鏑矢という。 そのカブラヤという名を持つ母と、フランスからの輸入種牡馬ファアラモンドの間に生まれたのがカブラヤオーである。 カブラヤオーは昭和47年、十勝育成牧場で誕生した。 血統背景も地味で馬体も見栄えがせず、まったく期待されていなかった。その証拠に馬主は、300万という捨て値でカブラヤオーを転売しようとしたが、買い手がつかなかったという。当然そんな馬を預かりたいという厩舎もなく、結局、カブラヤオーの姉を管理していた茂木調教師がしぶしぶ引き受けることになった。 入厩してからもカブラヤオーに対する評価は変わることがなかった。 調教でもまったく覇気がなく、その上、他馬を怖がるという競走馬として致命的な欠陥を持っていた。そんな風でも乗り味だけはよく、厩舎の主戦・菅原はカブラヤオーに対し、「なんとも不思議な馬」という印象を持っていたらしい。 そんなカブラヤオーも、なんとかレースに使えるぐらいには仕上がり、東京のダート1200mでデビュー戦を迎える。その鞍上には見習い騎手の菅野澄男がいた。「主戦の菅原が乗るまでもない」、その程度の期待だったのである。 ところがそのレースでカブラヤオーは、7番人気という低評価に反発し、中段から差して2着と意外な好走を見せる。 初戦の善戦で少しはカブラヤオーを見直した茂木調教師だったが、それでも「ひとつふたつは勝てるかな」ぐらいのことで、のちに最強馬と称されるほどの馬になろうとは夢にも思っていなかった。 カブラヤオーは中1週で折り返しの新馬戦を迎える。5番人気と相変わらず競馬ファンからは軽視されていたが、それをあざ笑うかのような4角先頭の競馬で、2着馬に3馬身の差をつける快勝劇を演じて見せたのである。 「この馬は自分が考える以上に強いのではないか?」 調教師の茂木も、さすがにカブラヤオーに対するイメージを修正する必要性を感じ始めた。 カブラヤオーは次のひいらぎ賞でもその素質を見せつける。しかしまだカブラヤオーの鞍上には見習い騎手の菅野澄男がいた。前走で強い競馬をしたものの、今回は昇級戦でもあり、13頭立て8番人気と依然伏兵扱いであった。 敢然と先頭に立ったカブラヤオーは、グングン後続との差を拡げてゆく。どう見てもオーバーペースであり、誰もが直線でズルズル下がるカブラヤオーを想像していた。 ところが現実には、止まるどころか2着馬に6馬身もの差をつけて大楽勝である。 これでカブラヤオーの戦績は3戦2勝、2着1回となった。 年が明け4歳(現3歳)になったカブラヤオーはジュニアカップに出走する。その鞍上には主戦の菅原泰夫。茂木がカブラヤオーの実力を認めた瞬間であった。 鞍上強化に応えるようにカブラヤオーは、2着のフロリオーギに10馬身というとてつもない着差で圧勝するのである。もはやその勝利をフロックなどという者は誰ひとりいなくなった。 味噌っかすから一躍、厩舎の期待馬にまでのし上がったカブラヤオーは、皐月賞までのステップとして東京4歳ステークス(現在の共同通信杯)芝1800mを使うことになった。ここで菅原にひとつ困ったことが起こる。もう1頭のお手馬、牝馬クラシックの有力馬テスコガビー(仲住厩舎)が出走を表明し、どちらかを選ばなければならなくなったのだ。 当日、カブラヤオーを弟弟子の菅野澄男に託し、菅原はテスコガビーの鞍上にいた。他厩舎のテスコガビーと違い自厩のカブラヤオーはいつでも乗れるというのもあったが、この時点ではまだテスコガビーのほうが強いと菅原は考えていたのである。 カブラヤオーもテスコガビーも逃げて強いレースをしてきた馬である。 「果たしてどちらが速く強いのか」、競馬ファンの関心はこの2頭の対決に注がれた。 競り合っての共倒れを避けるため、師弟間ではテスコガビーがハナでカブラヤオーが2番手と事前の打ち合わせができていた。しかし実際のレースでは向こう正面でカブラヤオーが引っ掛かっり先頭に立ってしまう。、交わされたテスコガビーも直線でカブラヤオーに食い下がり、2頭によるたたき合いが延々続いたが、結果はカブラヤオーがクビ差だけしのぎきった。 テスコガビーを下したカブラヤオーは、続く弥生賞(中山1800m)でも関西馬ロングホークの挑戦をこともなげに退け、クラシック第一弾・皐月賞での大本命の座を揺るがぬものにした。 〈2〉伝説のプロローグ 皐月賞当日、ゲートオープンと同時に関西の鉄砲玉レイクスプリンターが飛び出す。しかしハナを譲るつもりなどサラサラない菅原は、立て続けに出ムチを入れて強引にカブラヤオーを先頭に導く。もとより玉砕覚悟のレイクスプリンターはカブラヤオーに執拗に絡む。2頭が作り出した前半1000m、58.9秒という流れは、仮柵も何もない当時の馬場状態を考え合わせれば、とてつもないハイペースである。その証拠にカブラヤオーを追いかけたレイクスプリンターは、レース中に骨折をしてしまい予後不良処分となってしまう。この激しい先行争いを生んだ原因に、東高西低という今とはまったく正反対の時代背景があった。関西馬陣営は強い関東馬に対して激しいライバル心を持っていたのである。 弥生賞で完膚なきまでに叩きのめされたロングホークの鞍上武邦彦は、この様子を後続馬群の中で眺めながら「きっとカブラヤオーは直線で止まるだろう」と考え、仕掛けるタイミングを計っていた。 中山の急坂を駆け上がるカブラヤオーにロングホークが迫る。誰もが漁夫の利を得たロングホークの勝利を確信した。 ところがカブラヤオーは止まるどころか二の脚を繰り出し、あっさりと後続を突き放してしまう。 終わってしまえば2分2秒5のレースレコードで、追いすがるロングホークに2馬身半の差をつける快勝であった。 この勝利にレース後の菅原は、「カブラヤオーについてくる馬はみんな潰れてしまいますよ。ダービーでも今日と同じレースをすれば負けるわけがないんです」と、ダービーでも逃げることを宣言をする。競りかけてきた馬を安楽死に追い込んだ今、この強気発言には凄みがあった。 5月4日、ダービートライアルのNHK杯〈東京2000m〉でカブラヤオーは奇妙なレースをする。 逃げた馬を行かせ、自身は内ラチから大きく離れた外側をポツンと1頭で2番手を追走したのである。 カブラヤオー最強宣言をした菅原であったが、ダービーに向け、さらに厳しい展開と2ハロンの距離延長に対する不安は消せないでいた。 そこで考えついたのが2番手で逃げる作戦であった。終始外を回ることで1頭だけ2400mのレースをする。もしもこれを勝てれば本番でもケレン味なく逃げることができる。距離さえ持てばカブラヤオーが負けることは考えられなかった。 菅原が与えた試練をカブラヤオーは難なく越えてみせた。なんと皐月賞2着馬のロングホークに6馬身もの大差をつけて圧勝してしまったのだ。 走るごとにその強さを増してゆく、他馬にとってカブラヤオーはまさにバケモノであった。 5月25日、晴れてダービー当日を迎える。 すでに菅原の胸中に迷いはなく、事前の質問にも「堂々とカブラヤオーの競馬をします」と答えている。 ゲートが開くと同時に飛び出したカブラヤオーが、菅原の激しい出ムチに反応し敢然とハナに立つと、すかさず関西馬のトップジローがそれに絡む。 どちらもまるで譲る気配なく競り続け、1000m通過時には、乱ペースの皐月賞をさらに0.3秒も上回る58.6秒というハイラップを刻んでいた。皐月賞のレイクスプリンターがそうであったように、カブラヤオーを追走したトップジローも3角で早々と手応えをなくし馬群に沈んでゆく。 前半の超ハイペースがたたったカブラヤオーは、4角早々にハクチカツ、ホシバージ、ロングホークらに接近される。 直線半ばでカブラヤオーが右にヨレた時には、もはやこれまでかと思われたが、ここからが凄い。まずいち早く襲いかかったロングホークを二の脚で振り切ると、次いで後方に迫ったハクチカツをも脅威の粘りで封じ込め勝利したのだ。このときカブラヤオーが2着馬につけた1馬身半は、永遠に詰まることのない決定的な能力の差であった。 この後、屈腱炎を発症したカブラヤオーは菊花賞を回避する。出走すれば間違いなく勝っていたであろうことは誰の目にも明白で、まぼろしの三冠馬と呼ばれることになる。 そして屈腱炎から復帰したカブラヤオーは、平場のオープンを4戦し3勝を挙げて引退する。 カブラヤオーは種牡馬としても、エリザベス女王杯GTを制したミヤマポピーらを輩出し、A級とまではいえないながら一応の成績を収めた。 完 [クリックに感謝です]
トップへ | みんなの「名馬伝説」ブログ